[再] 2006/12/17付け タナベさんの思い出(1945年、バリ島)

以前、他のブログに掲載していた記事の再掲です。

インドネシアの英字紙The Jakarta Postの2006年の記事。残念ながらWebに残っていません。(訳内のurlは掲載当時のものです。クリックしてもNot Foundとなります。)

▼▼▼ 再掲載 ▼▼▼

英字紙The Jakarta Postを漁っていたら、興味深い記事を見つけましたので紹介したいと思います。

日本占領下のバリ島で、地元の少年が出会った日本人の思い出が綴られています。
筆者Wayan SadiaはThe Jakarta Postのエディター。日曜版の紙面を飾るエッセイといったところでしょうか。

タナベ・サン
Tanabe-sang by Wayan Sadia (2006/12/17)
http://old.thejakartapost.com/yesterdaydetail.asp?fileid=20061217.M03

・和訳

それは1945年のことだった。第二次世界大戦は、その最後の苦痛の中にあったが、依然として荒れ狂っていた。日本軍は極めて攻撃的であると知られていた。そして、インドネシアの支配をオランダの植民地主義者から奪い取り、東アジア・東南アジアの支配を獲得しようとしていた。

その頃、タナベという名前の日本人(40代の終わりか50代の初めだったと思う)が、バリの私の村に大きな農園を作った。その農園では、タナベ・サン*1(彼はこう呼ばれていた)は多くの種類の医薬用ハーブや植物を栽培し、数十人の労働者を雇っていた。そのほとんどが地元の人々であり、極わずかな管理職が外部から採用されていた。

私は当時ほとんどの時間を叔父の家ですごしていた。叔父は私の母の弟だったが、年齢は私とほとんど同じだった。小学校より上の教育へ進むことが出来なかったので、叔父と私はタナベ・サンの農園で働いた。

農園での初日、何よりも初めにタナベ・サンは我々を彼の事務所に呼び出した。「オハヨ ゴザイマス*2」と、同時に私たちは我々の大ボスへ挨拶した。

私よりも少し大きくて背の高い叔父を見ると、タナベ・サンは尋ねた。「名前は?」
「クトゥッ・ダルマディ」素早く叔父が返事をした。そして、彼は私の方を向き、今度は眉毛を上げただけだった。
「ワヤン・サンディカ」私は答えると、次に彼が何を尋ねるのか不安に感じた。

「よし、ボウズども。ここに来てくれて嬉しいぞ!」タナベ・サンは大声を上げた。「ここの仕事を好きになってくれれば良いが。」

これで、私たちは人心地つき、気分も楽になった。彼は続けた。「基本的に、子供は働かせないことにしている。その理由は単に、お前たちのような年齢の子供にはここの仕事の性質が合わないからだ。しかし、我々はこの村にお返しもしたいし、お前たちにもだ。お前たちはブンヤニング[Bunyaning]村の出身だからな。」

「それに、時々この農園を学校児童が訪問してくる。お前たち、連中と会って話すのは楽しいだろう。聞いているが、お前たちは小学校を終えたばかりだからな。」タナベ・サンは微笑んで、私たちの肩を軽く叩いた。「よし、クトゥッとワヤン、今日から働いてもらうぞ。言われた場所へ行きなさい。」と彼の話は終った。

サヨナラ*3を彼に言うと、私たちは持ち場へ向った。

※※※

この農園で栽培されている様々な種類の植物がどこから来て何のために使われるのか?私には不思議だった。戦争をしている国民にとって、疾病~それは戦場の兵士だけではなく一般民衆にも苦しみを与えうる~を癒す膨大な量の薬が必要となるのだろう。私はそんな風に漠然と推測した。栽培されているハーブや植物は何だったのか? 私の頭で分かるのは、マラリアの薬になるキニーネとクミス・クチン*4だけだった。

私たちは、広々とした風通しの良い建物で働いていた。そこでは、漢方薬と胃痛を治す錠剤を生産していた。錠剤はハーブと麻痺薬の粉末を含んでいた。

仕事にはとても興味を引かれたし、仕事をするのが好きだった。そしてもちろん、毎月私が稼いだ給料のおかげで、私は偉くて立派になったような気がした。ダルマディ叔父や私のような若年で毎月給料を稼ぐチャンスのある男子なんて、女の子は問題外、他にはいなかった。

※※※

会社が町の学校からのケンガク リョコウを主催したとき、訪問者たちの世話をする大人を叔父と私は手伝っていた。通常、訪問者たちは5年生か6年生で、大きな容器から甘みを付けたお茶を彼らに出したのだった。

生徒たちは、会社の年上の従業員に付き添われており、農園ツアーのあいだ彼らの質問には彼が答えていた。しかし当然のことながら、私と多かれ少なかれ同じ年の若年訪問者たちにとって、農園の仕事についての説明を聞くよりも遊びまわり、楽しむほうが好ましかった。

この訪問はふだんお昼の12時までには終っていた。そして彼らが帰るときになると、丁度タイミング良くタナベ・サンが現れ、学校児童たちに訪問の礼を述べるのだった。

※※※

たいていの場合、タナベ・サンは馬にまたがって農園を回っていた。一人だった。

戦時占領下の我が国に暮らしていた日本人~その全ては軍関係者と私は想像していた~の数は極めて少なかったに違いないが、男女を問わず、彼が他の日本人と一緒にいるのを見た事はなかった。

バリを占領した日本人は海軍だということを私は知った。そして彼等は我が国の他の場所を占領した他の軍隊よりも多くの点で優しく親切だった。*5

タナベ・サンは私たちをとても好いてくれた。たぶん、彼にとって私たちは従業員というよりも息子だったからだ。

ある日、私は農園の前で彼に出会った。私がオハヨ ゴザイマスと挨拶すると、彼は私に微笑んでくれた。そして、不意に、しかし優しく私を抱きしめた。

「ワヤン、お前は私の息子にとても似ている」と彼は言った。「私の息子、ヨシオは今13歳だ。息子を愛している。だが、息子は日本だ。ここからは遠い。ああ、すぐに私のヨシオに会いたいものだ!」

私は黙っていた。そして少しオロオロとしていた。言うべき言葉がなかった。私は、日本人はとても強く、どんな状況下であっても日本人の相手をしようなどという勇気のある者はいないと思っていた。日本人のことを考えただけで、その人の心は萎んでしまったろう。まして面と向って彼らと会うとしたら。

少し気まずくなってしまい、たとえタナベ・サンが私が聞いている他の日本人~彼等は厳格であり、頑固であり、怒りっぽい~と同じではないとしても、私は1人になりたかった。

私の落着かない気分を理解して、彼は私を離してくれた。

タナベ・サンが軍隊の人間であり薬剤師か医師となったこと、そして家族を残して[バリ島へ]来ていると私が理解したのはこの後のことだった。

戦時下のバリ、5年生だったときの私の記憶はいまだに鮮明だ。毎朝教室に入る前、校庭で体操をした。そして日本列島の方角を向き、深く身体を曲げてテンノー ヘイカ — エンペラー — に敬意を表わし挨拶したのだった。

当時の教育は知力の発達よりも身体的な成長により焦点をあてていた。私たちは、ココナッツの木からフロア・マットを作るなど学校外でより多くの時間をすごしていた。もしくは、綿の木から虫を取るために農園へ行くこともあった。綿花は日本軍から栽培を義務付けられている作物だった。虫がつくとその植物には大きなダメージとなり、作物全体が駄目になる場合もあった。

肉体的な壮健さは当時とても大事なことだった。そしてそれは毎日のタイソーによって獲得された。頻繁に、私たち若者は竹の棒を使った綱引きのような競技に参加せねばならなかった。これは互いに一方が他方の竹棒を押し、それに耐えられず[棒を倒されたほうが]負けなのだ。

しかし、戦争はバリの人々に窮乏を引き起こした。主要な食料は不足した。お米も例外ではなかった。他の穀類や食料と混ざっていないお米を食べることは贅沢だった。それは、例外的に裕福な者だけが出来たことだ。人々は米を緑豆やジャックフルーツ、はてはバナナの木の新芽とさえ混ぜて食べたものだった。

味だって? 確かにひどかったよ。だが、とても奇妙なことに、そんな状況下であっても私たちの肉体的抵抗力は病気にかからないレベルへと達していた。

※※※

錠剤の製造ラインで働き始めて数ヵ月後、叔父と私は川の近くにある別の部署に移動となった。今度は武器の製造部所へ配置されたのだった。

日本人の訓練を受けた現地労働者、ブラタさんが私たちを彼の職場へ連れて行った。彼は、この新しい仕事が危険であることを注意した。

「この仕事は危険だけども、お前たちに仕事の手伝いをしてもらうことにした。」ブラタさんは言った「危険だが、お前たちは何とかできると思ってる。」

私たちの仕事は火炎瓶を作ることだった。私はそれを誇りに思った。私たちが作っている物は戦争に不可欠だったから、タナベ・サンは不意の検査を頻繁に行った。しかし、使える状態となった数百もの火炎瓶を見ると、私は恐怖を感じた。これがどこでどのように使われるのか、私は知らなかった。

ブラタさんはビールの大ビンを使った火炎瓶の作り方を注意深く教えてくれた。一見無害そうな完成品はトラックで私の知らない目的地へと運搬されていった。運搬中にボトルが互いに激しくぶつかり合わないよう注意しなければいけない。強い衝撃があると、ボトルが割れ、火炎瓶は巨大な炎を上げるだろう。

それは運の悪い日だった。私は集中力を欠き、丁度仕上げたばかりの火炎瓶につまづいてしまった。ボトルは割れ、一瞬にして火が燃え上がった。私は恐怖で助けをもとめ叫び声を上げた。職場の先任者が消火器を持って駆けつけ、すぐに火を消した。おかげで、大きな被害にはならなかった。

しかし、タナベ・サンがこの事故を知ったらと思うと、私は恐ろしかった。まもなく彼はこの事故のことを知り、やってきた。

「ワヤン、バカヤロー。お前は何をやったのか、わかっているのか?お前は仕事が良くできない*6”」お前は仕事で注意が足りないと彼は叱った。

これについて、私は謝る以外の何事も言うことが出来なかった。

※※※

1945年の8月は日本人にとって最悪の月だった。広島と長崎に落とされたアメリカの原爆のせいで、8月14日に日本が連合国軍へ降伏したというニュースが広まったのだ。

「かわいそうなタナベ・サン」私は独り言を言った。彼は確かに立派で優しく親切な人だった。そして、軍隊にいる他の日本人に比べてずっと人間的だった。

だけど、降伏のあと彼はどこへ行ったのだろう?

私はその後の彼について全く聞いていない。国へ帰り家族と再会できたのだろうか?そして、もちろん、私を抱きしめたように彼の最愛のヨシオを抱きしめたのだろうか?それとも彼は死んだのか?

神のみがその答えを知る。

私にとって、12歳の単なる少年の出来ることは、彼がいないことを時々寂しく感じるということだけだった。

※※※

★訳注

※( )内は原注。[ ]内は訳者が追加補足した文言。

*1:タナベ・サン。原文「Tanabe-sang」。Sangはインドネシア語で人名に付ける敬称。ここでは日本語の「~さん」に引っ掛けて、Tanabe-sangと表記している模様。なお、日本人が「さん」と発音するとインドネシア人には「sang」と聞こえる場合あり。

*2:オハヨ ゴザイマス。原文「Ohayo gozaimasu」。

*3:サヨナラ。原文「sayonara」。
この他、上の訳でカタナカ表記されている日本語はすべて原文ではローマ字表記されています。
日本占領下のインドネシア学校教育で、一番時間を割り当てられた語学は「日本語」でした。当時の小学校に通っていたインドネシア人の中には、片言だが日本語を覚えている人が結構いる模様。

『占領者の言語である日本語は、全学校で必修科目となり、初中等教育機関においては、全科目のうちで最大時間数を占める科目となった。たとえば、国民学校六年次における週あたり語学学習時間は、日本語六コマ、マライ語[*引用者注:インドネシア語のこと]五コマ、地方語(ジャワ地区ではジャワ語、スンダ語、マドゥーラ語のいずれか)二コマであり(一コマ=四〇分)、語学科目が全授業時間(三六コマ)の三六パーセントを占めた。』知っておきたい戦争の歴史 -日本占領下インドネシアの教育- 百瀬侑子 著 つくばね舎(2003)。p.49から

*4:クミス・クチン。kumis kucing~「ネコの髭」という意味。最近、日本でも「血糖値を下げる」お茶として話題に上げられる機会あり。

*5:当時、日本の軍政下では、スマトラ、ジャワ、マドゥーラは陸軍が支配し、ボルネオ、セレベス(スラヴェシ)、バリなど他の地域は海軍が支配していた。バリ島の日本軍(海軍)が他の地域よりマシだったという筆者の論拠は何なのでしょう。タナベ・サン1人のおかげ?

*6:お前は仕事が良くできない。原文「Kamu karuja tidak bagus!」。タナベ・サンが語ったインドネシア語のようです。2つ目の単語karujaの意味がよく分かりませんが、karja(今の綴りだとkarya)の日本人風発音(=カルヤ)なのかな、と推測。

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このタナベさんという日本人はどうなってしまったのでしょう。記録があれば調べてみたいものですが。。。。

▲▲▲ 再掲載 ▲▲▲

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