『1942年、蘭領東インドへ侵攻した日本軍司令官の今村均中将は占領地に寛大な軍政を行い、現地人の支持を得ることに成功した、云々』というのは、よく聞く話です。私の手元にある書籍「陸軍大将今村均」(秋永芳郎 著、光人社NF文庫)には、そういった趣旨の記述があるし、Web上でも同じような内容のページは数多ある。
そこで、気になったのは『じゃあ、インドネシア側は今村均将軍についてどう書いているのか?』ということです。いろいろと調べてみましたが、これまで読むことが出来た記述では、あんまり大したことは書いてありません。
今後も継続的して教科書やWebの記述を中心に情報を漁ってみるつもりですが、現時点で調べてみたことを下記の通り、纏めておきます。
高校生用の歴史教科書に今村将軍が登場しますが、ジャワ侵攻の日本軍司令官というだけです。「寛大な軍政」については全く記述がありません。
これからも他の教科書をあたるつもりなんで、ひょっとしたら今村将軍について詳しく書いている本があるかもしれません。
インドネシア国家教育省のWebで一般公開されている教科書の中の中学3年生向け社会科教科書に今村将軍の軍政について触れている箇所がありましたので、引用のうえご紹介いたします。
和訳
1. 政治面
占領初期、日本は[民衆の]心を引く宣伝を広めていた。当初の日本はソフトな姿勢を示していた。例えば;
- 日本の国旗と並んで紅白旗[インドネシア国旗]の掲揚を許した。*1
- オランダ語を禁止した。
- 日常生活でのインドネシア語使用を許可した。
- インドネシア・ラヤ[インドネシア国歌]の歌唱を許可した。
しかし結局のところ、日本のこのソフトな方針は長続きしなかった。今村将軍は、これら方針を変更した。政治活動は禁止され、政治団体は解散させられた。それらの代用品として、日本は新しい組織を作った。しかし、これらは日本自らの利益のためであることが明らかだった。日本が作った組織・団体とは、例えば3A運動、プートラ、ジャワ奉公会であった。
※ [ ]は訳者が補足追加したもの。
*1: 1942年3月8日にジャワのオランダ軍が降伏。しかし早くも同月20日には、日本国旗のみの掲揚を許可する政令がだされていました。
布告第四号 国旗使用ニ関スル件 昭和17年3月20日(アジア経済研究所 - 図書館 - 岸幸一コレクション)を参照ください。
当時の様子を語った証言:
オランダが降伏すると同時に、日本軍の司令官が入ってきました。今村均中将のことです。彼は今の独立(ムルデカ)宮殿に居を構えました。そして、ガンビル広場には、気球がふたつ上げられました。ひとつの気球の先にヒノマル[日の丸]の旗が、そしてもうひとつの先に紅白旗(メラ・プティ)が結ばれていました。その気球には「旗の色も、民族も同じ」と書かれていて、若い人や学生たちはそれを見て喜びにわきたっていました。ええ、とても友好的でした。
でも、一週間もすると、そうした状況は変わりました。旗が降ろされ、別途定められるときまで当分紅白旗(メラ・プティ)を禁止するという日本側の発表があったのです。
・二つの紅白旗 インドネシア人が語る日本占領時代
インドネシア国立文書館 編著 倉沢愛子:北野正徳 訳 木犀社(1996年)。p.38から。
原文
1. Bidang Politik
Pada masa awal pendudukan, Jepang menyebarkan propaganda yang menarik. Sikap Jepang pada awalnya menunjukkan kelunakan, misalnya:
- mengizinkan bendera Merah Putih dikibarkan di samping bendera Jepang,
- melarang penggunaan bahasa Belanda,
- mengizinkan penggunaan bahasa Indonesia dalam kehidupan sehari-hari, dan
- mengizinkan menyanyikan lagu Indonesia Raya.
Kebijakan Jepang yang lunak ternyata tidak berjalan lama. Jenderal Imamura mengubah semua kebijakannya. Kegiatan politik dilarang dan semua organisasi politik yang ada dibubarkan. Sebagai gantinya Jepang membentuk organisasi-organisasi baru. Tentunya untuk kepentingan Jepang itu sendiri. Organisasi-organisasi yang didirikan Jepang antara lain Gerakan Tiga A, Putera, dan Jawa Hokokai.
これでは、今村将軍は態度を豹変させた裏切者です。なお、教育省のサイトには社会科の教科書が他に数多く掲載されていますので、今村将軍(その軍政関係)についての記述を見つけたら、随時こちらでご紹介することにします。
↑2008年8月2日修正・追加
Wikipediaの記述を当たってみました。
まず、今村将軍の項目。
次に、日本占領下の時代(1942-1945)を記述したページ。
Wikipediaの中でこれまで見つけた今村将軍関係の記述は上の2つのみ。他に戦後のオランダが行った軍事裁判の記述がWikipediaにあれば当たってみるつもりです。
なお、インドネシア語版のWikipediaでは、残念なことに今村将軍や前田精提督といったインドネシアと縁の深い軍人についての記述が極めて簡略なものとなっています。
参考までに、インドネシア独立宣言に深くかかわった海軍提督前田精少将についての記述を紹介しておきます。
なお、前田少将についてはWikipediaのインドネシア独立宣言のページでそこそこ言及はされています。あと、本題(今村将軍の寛大な軍政)からは完全に脱線しますが、日本の軍人の中では山本五十六についての記述が結構充実しています。それにひきかえ、今村将軍や前田提督についての記述量の少なさには釈然としないものを感じますね。
インドネシアの主要な新聞・ニュースWeb(詳細次の通り)を漁ってみましたが、今村将軍の軍政についての記事は皆無でした。
調べたサイト:
それぞれのサイトで「imamura」「immamura」を検索。(Googleのサイト検索機能を利用)
今村将軍についての記事は上のいくつかのサイトで見つけることができましたが、いずれも「ジャワ進攻の日本軍司令官」「カリジャティでのオランダ降伏の際の日本側司令官」といった記述ばかりです。
上記の結果からインドネシア人の間で「今村将軍の寛大な軍政」が話題に上がっている可能性はきわめて低いと判断します。
インドネシア歴史教科書やWeb上で、今村将軍は「蘭領東インドに進攻しオランダ軍を降伏させた日本の軍人」という言及・話題に終始しています。
「今村将軍の寛大な軍政」という話題は、どうやら日本側で語り継がれている「秘話」となりそうです。
あとは、「jenderal imamura」「letjen imamura」といったキーワードでWeb全体を丹念に調べていくしかなさそうですね。これは骨が折れるな。。。。
それから、インドネシア語で今村将軍についての書籍が出ているのか? これについては不明です。まだ調べていません。2008年05月18日追記→ amazon.comでインドネシア語の書籍を漁ってみましたが、「jenderal imamura」「letjen imamura」のキーワードでヒットするものなし。結構珍しい書籍も(品切れであっても)ヒットしているのですけどね。これも探すのは大変そう。。。。
今村将軍についての新聞記事を漁っていたところ、面白い記事を見つけました。本来の目的(今村将軍の軍政についての記事を探す)からは外れますけど、紹介したいと思います。
昨年(2007年)7月9日のSuara Merdeka紙Webに掲載された読者からの投稿です。表題は『英雄への敬意』といった意味。投稿の趣旨は『(投稿時すでに安倍政権となっていましたが)小泉前首相の靖国参拝に賛意を示す』ものです。で、私が興味深いと思ったのは、投稿者の日本軍についての知識です。なんとなく日本好きな(日本贔屓な)感じなのですが、かなりメチャクチャです。最初、日本好きと思われるこの投稿者に敬意を評し、記事を全訳したかったのですが、長い上に訳注を付けて修正しなければならない箇所が多いので、翻訳を始めたものの疲れてしまい(^^ゞ、部分的な訳でご勘弁いただくこととしたいです。なお、インドネシア語OKの方は、上のurlをご覧ください。
さて、靖国に祭られている日本の有名な軍人たちの紹介が投書の中でされています。まず最初が『海軍提督乃木(Laksamana Laut Nougi)』なんです。この『乃木提督』が『ベーリング・ウラジオストック海でロシア艦隊を壊滅させた』と紹介されている。
次は、山本五十六提督です。山本元帥については『この偉大な海軍提督は1942-1945年のアジア・太平洋戦争を指揮し、ソロモン諸島の航空戦で戦死した。彼はパールハーバー攻撃を考え出した戦略家であり、これにより太平洋のアメリカ艦隊は粉砕された。』で、まず無難なところでしょう。正確には山本元帥が指揮したのは1941-1943(開戦から戦死した年まで)なんですが。。。。
そして、私が一番のけぞったのは源田大佐についての記述。まず、『源田空軍大佐がその全ジバク隊を使い指揮した攻撃作戦は、イギリスの40,000トン級戦艦2隻、つまりプリンス・オブ・ウェールズとレパルスを沈めることに成功した。』
マレー沖海戦に源田大佐は参加してないのですけど。そしてジバク隊(pasukan Jibakutai)って何? 源田大佐は、後の特攻作戦考案に関係しているので、それの誤解かもしれません。
源田大佐についてはさらに続きます。『他方、オランダの海軍・空軍もジャワ海で源田により一掃されてしまった。』『インドネシアでは、オランダは今村将軍の前に一週間で一掃された。~中略~ プルワカルタのスバンにあるカリジャティで行われた無条件降伏の場にも源田大佐は出席していた。』(どちらも源田大佐は関係ないと思います。)
インドネシアで源田大佐を主人公にした架空戦記でも出版されていたんでしょうか?
趣旨・主張は別にして、こういった内容の投書がそのまま新聞社Webの投書欄に掲載されてしまうとは驚きました。掲載前にだれも史実をチェックしないんでしょうかね?
とはいえ、この投書の最後を「Koizumi-san.... Gambatte kudasai. Jibun no koto wa, Jibun de suru.」と日本語(ローマ字)で結んでくれた投稿者には、長文お疲れ様としましょう。
このとんでもない歴史記述の投稿を読んで、自分を含め日本側でも『とんでもない歴史理解のインドネシア紹介』をWebでやっていないか、反省したいと思います。
投稿者はTemanggung(中部ジャワ)在住の方。Suara Merdekaのサイトを投稿者の名前で検索すると、投書欄に頻繁に登場している方のようです。常連さんですね。今年(2008年)1月の投書には82歳と書かれています。
スカルノの時代を懐かしんでいらっしゃるようで。1945年以降の独立戦争に参加。『当時は竹槍と壊れた銃(senapan usang:意味がもう一つ良く分からない)しかなかったが、戦った』と意気軒昂なご様子です。上でご紹介した記事の最後にローマ字で日本文を寄せていますので、ひょっとしたら日本語を話せるのかも。
投書には住所も書いてあります。なんとなく、お会いしてみたくなりました。
ジャカルタ駐在時(1990年代前半)、現地提携先の古老(日本占領下の教育を受けたご老人)は、日本の軍人の名前を結構覚えているようでした。
例えば、
私「今度、東京から“杉山”という出張者が来る」と伝えると;
ご老人「その人は杉山将軍の親戚か?」と質問してくる。
※杉山将軍は当時の参謀総長。1942年4月訪ジャワ。
残念ながら、業務上のお付き合いしかありませんでしたので、日本の軍人についての話題でおシャベリをする機会はありませんした。日本からの出張者で東条、今村、山下、山本といった苗字の者がいれば、また同じような質問を受けたかもしれませんが。
日本軍占領期のインドネシアについては、次のサイトも合わせて読まれることをお勧めします。
このサイト内にある次のページも是非ご覧ください。