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私の好きなインドネシアオランダ政府公認の歴史記述とは?←2008年06月15日更新

オランダ政府公認の歴史記述とは?

日本による蘭領東インドの占領インドネシアの独立おまけリンク

序:オランダ外務省Webの歴史記述

オランダ外務省による「オランダ史」のページ(一部:第二次大戦、インドネシア独立のあたり)を読んでみました。

http://www.minbuza.nl/history/en/home外部サイトへのリンク (英語)
(他に、スペイン語、フランス語、オランダ語、ドイツ語のページも用意されている。ドイツ語のページを少しだけ眺めてみましたが、英語ページとほぼ同じ内容でした。全言語にわたって同じ記述をしているものと推測。)

当初、在インドネシア(ジャカルタ)のオランダ大使館WebでHistory(歴史)を探していたのですが、歴史のページはなく、上の外務省ページへリンクされていました。

在ジャカルタ オランダ大使館Web外部サイトへのリンク

おそらく、各国にあるオランダ大使館Webでは独自の歴史ページは持たず、上記外務省のページへリンクさせているのでしょう。在米 オランダ大使館のサイトでも、Historyについては同様に上のページへリンクが張られていました。

在米 オランダ大使館Web外部サイトへのリンク

この外務省公式史のページから「日本による蘭領東インドの占領」と「インドネシア独立」の箇所を訳し、内容を紹介します。

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日本による蘭領東インドの占領

ソース:http://www.minbuza.nl/history/en/1914tot1966,1941---1945.html外部サイトへのリンク

日本による蘭領東インドの占領 (1941-1945)

蘭領東インドのオランダ人居住民は、日本によって男女別々の収容所へ拘留された。男性の多くは奴隷労働を強制された。日本占領下、原住民も同様に酷い扱いを受けた。

戦争はヨーロッパだけに限定されなかった。1940年9月27日、日本、ドイツ及びイタリアは[日独伊三国軍事]同盟を結び、1941年12月7日、日本はパールハーバー海軍基地の米国太平洋艦隊を爆撃した。日本はビルマ、マラヤ、シンガポールそして蘭領東インドをいとも簡単に侵略・占領していった。カレル・ドールマン少将指揮の連合国艦隊はジャワ海海戦で敗北し、豪・英・米・蘭ほとんど全ての艦艇と多くの乗員が失われた。(900名のオランダ人を含む)

この地域のオランダ陸軍部隊は三ヶ月で降伏に追い込まれた。続く数ヶ月の間に、この地域の全てのオランダ人は男女別々の収容所へと拘留された。この経験は、オランダ人植民地エリートにとって屈辱的なものであり、日本軍による収容所での虐待行為がそれをさらに悪化させた。被抑留者たちは厳しい規律と飢餓状態の下に置かれ、多くが死亡した。

インドネシア人たちの態度は当初曖昧なものだった。*1 彼らは、日本人を解放者と見るのか、占領者と見るのか決めかねていた。第二次世界大戦勃発に先立ち、スカルノとそのインドネシア国民党(PNI)に率いられた民族主義運動をインドネシアはすでに経験していた。日本はこの運動を彼らの目的のために利用し、日本の戦争のため全民衆にくびきをかけた。何十万ものインドネシア人が、オランダ人戦争捕虜と同様に、奴隷労働者として扱われた。

1942年夏、アメリカは日本の前進を食い止めた。米国海軍は、珊瑚海海戦(1942年5月7~8日)*2 とミッドウェイの戦い(1942年6月3~6日)で勝利し、太平洋で徐々に優位を占め始めた。そして米軍は1944年10月フィリピンへ戻ってきた。[1945年]8月6日、広島に原子爆弾が投下され14万の人々を殺し、その3日後には長崎にもう一発が投下され推定で7万人以上が殺された。これにより戦争は終結した。1945年9月2日、日本は正式に降伏した。そして直ちに日本の占領地域からの撤退を開始した。

[訳注]

※:[ ]内は訳者の補足追加箇所。( )内はもともと原文で( )内に記述されているもの。

*1: 日本軍進攻当初は、日本軍を歓迎する雰囲気が強かった模様です。様々な戦記の記述から『原住民が皇軍の到来を歓迎している』雰囲気がうかがえます。しかし、紅白旗の掲揚を禁止し日の丸掲揚を義務化、宮城遥拝の義務化、憲兵隊に代表される粗暴な支配機構などにより、それは幻滅へと向かいます。

*2: 珊瑚海海戦。日・米両軍の被害状況に限定すると、日本側の方が被害は少なかったようです。しかし、この海戦の結果、日本軍は当初の目的「ポートモレスビー攻略」を放棄することとなり、日本軍の前進は阻まれることとなりました。

参考ページ:珊瑚海海戦-Wikipedia外部サイトへのリンク

さて、在日のオランダ大使館には独自にオランダ史のページがあるんですよ。参考までに戦争時期についての記述を引用しておきます。

ソース:日蘭交流の歴史外部サイトへのリンク

11. 歴史の闇(1942-1945)

第二次世界大戦は、長きにわたる日蘭関係において、一瞬の断絶をもたらした最初で唯一の出来事である。天然資源の確保と大東亜共栄圏 の構想を実現するため、1942年1月10日、日本軍はインドネシアに侵入した。当時オランダの植民地だったインドネシアは、石油や天然ゴム、胡椒、スパイスなど天然資源が たいへん豊富だった。2ヶ月間にわたる戦闘の末、オランダ国軍は降伏した。そして4万人ものオランダ兵が捕虜として収容所に連行された。それに引き続き、 インドネシアに住んでいたオランダ人の一般市民も強制労働キャンプに移送され、遠くは長崎や北九州の炭坑に連れられて行った。

日本軍のインドネシア占領が終戦と共に終わり、最終的にインドネシアは独立を果たした。大戦後、オランダは植民地主義の列強から離脱 し、日本は1951年 まで米軍に占領された。この間、過去に培ったはずの日蘭関係は覆され、大戦による傷跡は今でも二国間関係に影を落としている。

同大使館の英文ページ(http://www.mfa.nl/tok-en/dutch-japanese外部サイトへのリンク)もほぼ同じ内容。

日本向けということで、オランダ外務省の歴史ページとは記述が異なりますね。それなりに苦心しているのでは。

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インドネシアの独立

ソース:http://www.minbuza.nl/history/en/1914tot1966,1945.html外部サイトへのリンク

インドネシアの独立 (1945)

第二次世界大戦が終わると、スカルノのインドネシア国民党 (PNI*1)は独立を宣言した。当初、オランダ政府は植民地の喪失を受け入れることができなかった。オランダ政府は軍事行動を起こしたが、米国が支持した国連による非難を受けた。4年後、主権がインドネシアに譲渡された。

第二次世界大戦の終結はただちに非植民地化の時代をもたらした。1945年8月17日、スカルノはインドネシア共和国の独立宣言を行った。スカルノはその早い時期から活発な政治活動を行う土木工学技師*2だった。1927年、彼は独立運動を行うための政党 - インドネシア国民党 (PNI) - を設立した。1929年から1932年にかけて彼は政治犯となり、1933年にはオランダ当局により再び投獄され、それは結局1942年日本によって開放されるまで続いた。彼は[日本の]占領期間、日本~その目的のためインドネシアの民族主義者の心を利用した~と協力した。

1942年ウィルヘルミナ女王がラジオ放送~戦後インドネシア独立を用意する政府会議を組織する約束をしていた~を行ったという事実にもかかわらず、オランダではインドネシアは戦争終結と共に戦前の植民地状態へ復元されるという想定が一般的だった。オランダ人はインドネシア民族主義者の気持ちの強さを過小評価していた。これは結局のところ段階的な[独立への]移行を妨げた要因の一つだった。また、独立交渉を始める前に植民地支配が復元されるべきだというオランダ人の見解もその一つだった。しかし、(インドネシアを開放した)イギリスは、共和国側代表との協議が行われない状況では、この目的のために協力するのは不本意だった。これはインドネシア共和国の認識も同様なものだった。1946年、共和国代表とオランダ政府との間で協議が持たれたが、合意には達しなかった。同年、オランダ議会はリンガルジャティ協定を承認した。それは、オランダ女王を元首として、オランダ王国とインドネシア連邦共和国*3からなるオランダ・インドネシア連合を最終的に設立するためのものだった。オランダの世論及び国内のほとんど全ての政党はインドネシアの自治に激しく反対していた。

1947年、停戦協定違反及び権益が危険に晒されていると感じたオランダ企業からの圧力のため、オランダは‘第一次警察行動’としてオランダ史に知られている軍事行動を起こした。これに怒った国連はオランダに停止を呼びかけ介入した。しかし、仲裁者としての国連‘調停委員会’は、オランダ側の共和国に対する疑心を防ぐことはできなかった。それは1948年第二次軍事行動を引き起こすことになる。再び国連は介入し、今回は国連インドネシア委員会 (UNCI)が主権移管準備のための権限を付与され設置された。最終的に、これ[主権移管]は1949年12月27日アムステルダムで行われた。このあと数年間、インドネシアとオランダは、ニューギニアの主権を含む広い範囲の争点について論争を続けた。二国間の緊張は、1957年インドネシアからの全オランダ市民強制退去に発展し、1958年には全オランダ企業の国有化、そして1960年の国交断絶へと続いた。1962年、当時の米国大統領[J.F.ケネディ]の弟ロバート・ケネディの斡旋でニューギニアについての協議を再開し、翌年主権の移管を実現した。1964年には外交関係を復活させた。

[訳注]

※:[ ]内は訳者の補足追加箇所。( )内はもともと原文で( )内に記述されているもの。

*1: PKI。「PNI」の間違いでしょうね。PKIはインドネシア共産党(Partai Komunis Indonesia)の略です。オランダ外務省へ訂正をメール送信しましたので、そのうち修正されるかも。。。2008年6月29日、上記サイトを確認したところ、PNIへ訂正されていました。

*2: 土木工学技師。原文「civil engineer」。独立の闘士としては妙な肩書きに見えるかもしれませんが、オランダ植民地支配下では、相当な高学歴者の証でした。

*3: インドネシア連邦共和国。インドネシアは短期間ですが連邦制をとっている時期がありました。

オランダ政府が、インドネシア独立を「1945年8月17日」であると明記するようになったのは最近(ここ2~3年?)のことらしい。従来は「1949年12月27日」(オランダが公式に主権移管に合意した日)に固執していたそうです。

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おまけ:遊就館(靖国神社)の記述

もう2年前(2006年)の話なんで、訂正されているかもしれませんが(そうであることを願ってますが)、遊就館内の展示で「インドネシアの独立を1949年」と記述している箇所があるらしい。

情報ソース:

その113ページに在東京 インドネシア大使アブドゥル・イルサン氏とのインタビュー記事が掲載されています。同大使が執筆した書籍「インドネシア外交官の目から見た日本」(宍戸久美子訳、オフィス・プロモシ)の紹介で、「日本人がインドネシアに対し関心を払っていない例」として「遊就館の記述」が槍玉に上げられています。

独立記念日はインドネシアにとって極めて特別な日なんで、遊就館を見学した際の同大使の驚き・落胆は容易に想像がつきます。今度、遊就館へは行くつもりなんで、記述が訂正されているか確認してきましょう。もう2年以上前の話題であり、インドネシア大使から指摘があったわけで、直してあると思いますが。。。。

2008年6月15日追加↓

遊就館を見学してきました。アジア・アフリカ諸国の独立について展示しているパネルでは、インドネシアの独立を「1945年」と表記していました。イルサン大使のインタビュー記事にあった「インドネシア独立を1949年」と表記する展示は訂正されたものと思います。

↑2008年6月15日追加

大切なもの

建国後まだ一世紀もたっていない国家「インドネシア共和国」。国旗、国歌などとならび「独立記念日」は極めて重要な国家統合の象徴です。

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リンク

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