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私の好きなインドネシアインドネシア中学校社会科教科書「独立準備の過程」日本語訳

第十章 インドネシア独立の準備過程

A.オランダ支配の終焉...B.インドネシアでの日本支配...C.インドネシア独立...

標準的な目標:
5. インドネシア独立の準備事業を理解する。

基本的な目標:
5.2 インドネシア独立の準備過程を明らかにする。

次のことを学習する。
→オランダ支配の終焉過程と日本のインドネシア進攻
→インドネシアでの日本支配の終焉過程
→インドネシア独立の準備過程

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A. オランダ支配の終焉過程と日本のインドネシア進攻(*6)

1940年5月10日、ヒトラー(ドイツの指導者)はオランダを攻撃し、その結果オランダ政府はロンドンへ逃れた。それと同時に、インドネシアでは戦時非常事態法が施行され、政治的な集会は禁止された。国民参事会(*1)のインドネシア指導者たちは、多くのことをなしえなかった。1940年9月には、枢軸(日本、イタリア、ドイツの連合)が形成された。

1941年12月8日(ハワイでは12月7日)、日本はパール・ハーバー、香港、マラヤを攻撃した。そして、オランダは連合国側に参加、つまり日本に対して宣戦布告した。1942年1月10日、日本はインドネシアへの攻撃を開始し、2月15日にはシンガポールのイギリス基地が日本側に降伏した。同月末、日本軍はオランダ、イギリス、オーストラリア、アメリカの合同艦隊をジャワ海海戦(*7)で粉砕した。1942年3月8日、ジャワのオランダ勢力は降伏し、総督Van Starkenborgh Stachouwerは日本側に身柄を拘束された。日本はインドネシアを3つの支配地域に分割した。それは、(1) 第25軍が支配するスマトラ、(2) 第16軍が支配するジャワとマドゥーラ、(3) 海軍が支配するカリマンタンとインドネシア東部であった。

3年半におよぶ日本のインドネシア占領時代は、インドネシアの歴史において最も決定的な時期のひとつであった。ジャワでの日本の占領方針はインドネシアの民族意識を覚醒させ、その結果日本は占領した各地での戦闘・反乱に対処しなければならなかった。しかしながら、これら抵抗・反乱の試み全てが日本のインドネシア支配を脅かしたわけではなかった。

インドネシア占領時代、日本は西洋(ヨーロッパ)的な事柄を日本的な物へと変えていった。道路は新しい名前を与えられ(*2)、"バタヴィア"市は"ジャカルタ"市へ変更された。インドネシア民衆の共感を得るため、またそれを確実なものにするため日本が実施したプロパガンダ(ある特定の目的へ誘導すること)の一つは、日本民族とインドネシア民族はアジアの新秩序を作り上げる大戦争の戦友であるというものだった。しかしながら、そういったプロパガンダの試みは度々失敗の憂き目を見た。なぜなら、強制労働、米の供出義務、軍警察(ケンペタイ*3)の恐怖、殴打、暴行、日本人に対するお辞儀の義務(*4)といった日本の占領下における苦い現実があったからだ。

他方、1944年2月アメリカ軍がマーシャル諸島を攻撃すると、アジア-太平洋の戦争(第二次世界大戦)での日本の状態はますます危機的なものとなった。それと同時にジャワの民衆による日本への反乱が目立つようになりはじめた。

重要!

独立準備調査会(*5)とはインドネシア独立準備事業を調査する機関であり、略してPBUPKI。そして独立インドネシアの行政システムにおける様々な重要事項の研究をその目的としていた。

[訳注]

*1:原文「Volksraad」。国民参事会、植民地議会などと訳される。ヨーロッパ人、現地人などから構成される諮問機関。

*2:例として、通りの名称「Oranje Nassauboulevard」を「Myakoodoori」(みやこ大通り)へ変更する等。

*3:原文「kenpetai」。憲兵隊だと思います。

ジャワでの憲兵隊について

“とくに憲兵の権力は絶大で、彼らはインドネシア人だけでなく、日本人の上にも"君臨"した。「泣く子も黙る‥‥‥」という言葉があるが、憲兵はまさに泣く子を黙らすだけの威圧感を持っていた。”

・“証言 インドネシア独立革命” 西嶋 重忠 著。新人物往来社(1975) p.127
訳者補足:西嶋重忠は、当時の在ジャカルタ海軍武官前田少将のスタッフ(海軍嘱託)。

対日協力者であるハッタ(後のインドネシア共和国初代副大統領)ですら憲兵隊からの強い圧力を受けていた。その恐怖は、1943年11月に訪日し天皇へ拝謁、そして受勲されるまで続いた。以下、ハッタの回想録から。

“私たち三人に勲章が授与された。~中略~ 日本の中央政府が私たちを遇した方法は、在インドネシアの憲兵隊を驚倒させた。天皇陛下が私たちと挨拶したことは、天皇陛下が私たちを尊敬する外国の客とみなしたという証であると考えられた。~中略~ その結果、私を隔離するか抹殺するという憲兵隊の計画はもはや遂行できなくなった。憲兵隊の脅威からはこの時点で解放されたと私は感じた。”

・"モハマッド・ハッタ 回想録" 大谷正彦 訳、めこん。p.458-459。

憲兵隊は、ハッタを共産主義者の疑いありと見ていた。

“「ハッタ」氏ハ、現地軍ノ一部ニ於テ共産主義者ナリトノ重大且ツ頑迷ナル誤解ヲ受ケ、危険人物ノ烙印ヲ押サレ、之ガ為同氏ハ中央参議院議員ノ外ニハ一切ノ公職ヲ与へラレズ、其ノ行動モ監視サレアリタルガ、~”

・“証言 インドネシア独立革命” 西嶋 重忠 著。新人物往来社(1975) p.151

*4:原文「kewajiban memberi hormat terhadap setiap orang Jepang」。これは日本軍人に対するお辞儀の義務化だと思います。次のページをご覧ください。
日本軍占領の衝撃オランダ領東インドの日本軍占領とインドネシアの独立外部サイトへのリンク

*5:原文「Dokuritsu Junbi Cosakai」

*6:「進攻」について。原文で使われている単語は「masuk」。「入る」(英語だと"enter"に相当)といった意味です。手元の辞書(イ-日、イ-英、イ-イ)を参照してみましたが、「侵略」「侵攻」といった意味は記載されていませんでしたので、「進攻」としました。もしくは「進入」でも良いかもしれません。なお、この教科書の著者が「侵攻」と「進攻」の差まで意識して単語を使い分けているかどうかは定かでありません。

*7:「ジャワ海海戦」は連合国側の呼称であり、日本側の呼称は「スラバヤ沖海戦」です。

※インドネシアの人名について:スカルノ、ハッタ、スバルジョ、シャフリルの4名のみカタカナ表記としています。これ以外は、教科書原文通りアルファベット表記としました。

※写真・図などの転載:出版元の了解を得ていませんので、教科書に掲載されている写真・図・インドネシア語原文の掲載は行いません。

※文中の時刻について:独立宣言を行った時刻(1945年8月17日10:00)等、教科書原文では時刻を「WIB(インドネシア西部標準時間:Waktu Indonesia Barat)」~一般的なインドネシア標準時~と表記していますが、当時(日本占領下)は東京時間(WIBプラス2時間)が採用されていたはずであり、どちらなのかよく分かりません。独立宣言は東京時間でいうと、全く同じ10時に行われたのか?それともWIBの10時(つまり東京時間12時)だったのか?

次の書籍によれば、独立宣言を行った時刻「10:00」は東京時間と同じとのこと。つまり、今のインドネシア時間(インドネシア西部標準時)では「08:00」。
・"スカルノ インドネシア「建国の父」と日本" 後藤乾一・山崎功著、吉川弘文館。p.120。

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B. インドネシアでの日本支配の終焉過程

アジア-太平洋の戦争を遂行する者として日本は連合国に対抗していたが、(1944年末を迎えると)その状況は逼迫し始めていた。各地の戦闘で日本が敗北し、日本の防衛線として戦略的に重要なマリアナ諸島のサイパンが1944年7月にアメリカの手に落ちると、この兆候はハッキリとしてきた。

これらの出来事は、日本の軍部とその政治的安定性を直接阻害するものとはならなかった。しかし、日本に対する国外からの様々な脅威はますます先鋭化していった。つまり、それは日本の軍事施設を破壊するアメリカの行為、日本のいくつかの重要都市を爆撃する継続的なアメリカの戦闘行動によって始められていた。このことは日本国内の政治的安定を阻害した。つまり、東条内閣が倒れたことによってハッキリとした。東条が職を辞すると、小磯国昭大将がそれを引き継ぎ、日本の総理大臣となった。小磯は、インドネシアを含む東南アジア植民地全てに対し独立を考慮する方向へより大きく傾いていた。

1945年3月インドネシアでの日本の防御はますます弱体化し、アメリカ軍がバリクパパン(東カリマンタン)へ上陸すると、緊急の度を増していった。このような危機に瀕して、1945年3月1日インドネシアの日本軍司令官原田熊吉中将は独立準備調査会(*1)の設立を発表した。

独立準備調査会(調査機関)は67名の会員からなり、そのメンバーは主要な国民的活動家および7名の日本人であった。そのメンバーの選出は1945年4月1日発表された。この調査機関の会長にはK.R.T Rajiman Wedioningratが指名され、R. Sorosoおよび日本人1名が副会長となった。この調査機関の会長・副会長の就任式は1945年5月28日に実施され、それには全てのメンバーとジャワ島を支配していた日本軍高官2名、つまり板垣大将と長野祐一郎中将(*2)が出席した。

重要!

1945年6月1日、スカルノは次の原則からなる独立インドネシア国家の基本思想について演説を行った:
1. インドネシア民族主義
2. 国際主義または人道主義
3. 全会一致の合意または民主主義
4. 社会福祉
5. 神への信仰
この5原則は、スカルノによってパンチャシラと名付けられた。

重要!

ジャカルタ憲章(*3)で定式化された国家の基本思想の内容は;
1. イスラム教徒にとっては回教法典の遵守義務による信仰
2. 公正で礼節ある人道主義
3. インドネシアの統一
4. 代表を通じての英知により指導される民主主義
5. 全インドネシア国民に対する社会正義

[訳注]

*1:原文「Dokuritsu Junbi Cosakai」

*2:原文「Letnan Jenderal Yaiciro Nagano」。YaiciroではなくYuiciroだと思います。

*3:原文「Piagam Jakarta」。次のページに全訳がありますので、興味のある方は是非ご覧ください。
ジャカルタ憲章

独立準備調査会(BPUPKI *3)は、独立国家インドネシアの基本構想(哲学)を定式化するため、1945年5月29日から6月1日まで会議を行った。1945年5月29日、Muhammad Yaminは、5つの原則"インドネシア民主共和国の原則と基礎"を提案した。それはつまり(1) 民族主義、(2) 人道主義、(3) 神への信仰、(4) 民主主義、(5) 国民の福祉であった。

最初の会議を開催した後、独立準備調査会は1945年7月まで会議を延期した。1945年6月22日、独立準備調査会のメンバー9名、スカルノ、ハッタ、Muhammad Yamin、スバルジョ、A.A. Maramis、Abdulkahar Muzakir、Wachid Hasyim、H. Agus Salim、Abikusno Tjokrosuyusoにより、国家の基本構想(哲学)について継続的に調査活動を行う小委員会が設置された。この小委員会はその後、独立インドネシア国家の目標・基礎となるドキュメントを生み出した。それは、ジャカルタ憲章として知られており、Muhammad Yaminの命名に一致していた。(*4)

1945年7月、南方地域の日本軍司令官はシンガポールで会議を行い、1945年9月7日インドネシアに独立を与えるという決定を行った。この決定に対応して、1945年8月7日寺内元帥(*7a)の許可で独立準備調査会は解散となり、それは独立準備委員会(PPKI *5)へ受け継がれた。

広島市と長崎市(日本)はそれぞれ1945年8月6日と9日連合国軍に爆撃(*6)された。その結果、この2都市は壊滅し、日本の国防は完全に麻痺した。そして日本政府は1945年8月15日連合国へ無条件降伏した。広島・長崎の爆撃と同じ1945年8月9日に国民的活動家であるスカルノ、ハッタ、Radjiman Widyodiningratは、寺内(*7b)寿一最高司令官(東南アジア全域の司令官)の呼び出しでサイゴン(ベトナム)のダラトへ出発していた。スカルノ、ハッタ、Radjiman Widyodiningratが1945年8月11日現地時間11:40にサイゴン(ベトナム)のダラトに到着すると、寺内(*7c)司令官はこの3名の指導者に対し日本政府の決定、つまりインドネシアへの独立の付与を伝えた。

インドネシア独立の準備を行うため、独立準備委員会(PPKI)の構成は独立準備調査会のメンバーと同じで良いと寺内は賛意を示した。PPKIの議長には、スカルノが指名され、副議長はハッタだった。

インフォメーション

当初、独立準備委員会の構成員は21名だったが、日本側の許可なく6名が追加された。そのようにして、独立準備委員会は日本の機関からインドネシアの指導者へとシフトし、インドネシア国民の闘争機関となった。

[訳注]

*3:BPUPKI。Badan Penyelidik Usaha Persiapan Kemerdekaan Indonesiaの略。

*4:インドネシア建国5原則「パンチャシラ」については、Yaminにその功績を帰する意見もあるようです。(一般的にはスカルノが定式化とされているようですが)

*5:原文「Dokuritsu Junbi Iinkai」。インドネシア語表記ではPanitia Persiapan Kemerdekaan Indonesia。略してPPKI。

*6:「爆撃」されたという表現のみであり、「原子爆弾」についての言及は一切ない。

*7:「寺内」は3回登場するが、最初(7a)は「Terauchi」で、次の2箇所(7b)(7c)は「Terauci」と綴られている。また、インドネシア語原文では「Jenderal Terauchi」と記載されているが、当時の階級(元帥)に和訳は合わせている。インドネシア語で「元帥」をなんと言うのかは、調べたが分からず。

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C. インドネシア独立の準備過程

アジア-太平洋戦争での連合国に対する日本の敗北は、日本政府によってそのニュースが秘密とされた。しかしながら、インドネシア指導者たち、特に青年派指導者たちは日本敗北の知らせを手に入れていた。権力の空白~日本は連合国軍への権力委譲のため1945年9月8日までその到着を待つ必要があった~が存在することを知ったインドネシア青年派はこの事態を利用した。

この機会を無駄にはすまいと、1945年8月15日シャフリル、Chaerul Saleh、Darwis、Wikanaらは日本からの同意を待つ必要なくインドネシアの独立をすぐに宣言するよう、サイゴン(ベトナム)のダラトから戻ったばかりのスカルノとハッタに要求した。しかし、それを支持出来ないというスカルノ-ハッタからの返答を得た青年派は、1945年8月15日20:30にPegangsaan Timur(ジャカルタ)の細菌学協会(*1)の一室で会議を行った。そこではChaerul Salehが指導し、Johan Nur、Kusunandar、Subadio、Wikanaら青年派が出席していた。会議の結論は、全青年派が独立宣言に参加出来るように、そしてインドネシアの独立はインドネシア国民の問題であって、他国の事情によるものではないということだった。この決定は同日の22:30、WikanaとDarwisによってPegangsaan Timur 通り56番地のスカルノ邸へ伝えられたが、スカルノの考えを変えることは出来なかった。

地平線(*2)

青年派たちの願望は、長老派から完全な支持を得ることが出来ていなかった。長老派は(独立準備委員会の決定に従い)1945年8月24日に独立するという以前からの日本側との合議・準備が依然として必要であるとしていた。

インフォメーション

インドネシア独立の闘士には2つのグループが存在していた。それはしばしば長老派および青年派と名付けられていた。
・長老派:スカルノ、ハッタ、スバルジョ、M. Yamin 他。
・青年派:シャフリル、Wikana、Darwis、Chaerul Saleh、Sukarni、Sudiro、Yusuf Kunto、Sayuti Melik、Adam Malik、B.M. Diah 他。

[訳注]

*1:原文「Lembaga Bakteriologi」。直訳すると細菌学の協会/組織。どんな団体なのわからない。

*2:原文「Cakrawala」。空や地平線といった意味。このコラムの題名としてどういった意味が適訳か判断つきません。

長老派と青年派の間には考え方の差が存在した。そのため青年派は次の行動を起こした。つまり民族の指導者であるスカルノとハッタの二人を、日本側からの政治的影響・圧力が及ばぬよう、安全確保を目的にジャカルタ市外へ拉致するということであった。そして1945年8月16日の未明04:00、スカルノ-ハッタはSukarni、Yusuf Kunto、Syodanco Singgihによってレンガスデンクロックへ連れ去られた。そこはカラワンの北側にある地域で、中団長(*1)Subenoの指揮のもと一個中隊が占領していた。そこでスカルノとハッタは1945年8月16日に独立宣言を直ちに行うよう青年派に要求された。スカルノ-ハッタはインドネシア国民にとって非常に権威のある人物であり、独立宣言はどこからの援助も受けずに自らの力で実行しなければならないというのが彼ら青年派の論拠だった。

インフォメーション

青年派によるスカルノ-ハッタのレンガスデンクロック拉致は、祖国防衛義勇軍と兵補の反乱が起きる可能性があり、二人を保護するということであった。しかし、結局そのような波乱は発生しなかった。スカルノ-ハッタは、この事件が日本側の計画とは離れてインドネシア独立表明をすぐに行うよう青年派が仕組んだ強制であることを、直ちに理解した。スカルノ-ハッタは青年派の要求を拒絶すると、ジャカルタへ戻り前田提督(*4)の支持を得てインドネシア独立宣言準備の会議を行いたいと要請した。

活動

インドネシア独立宣言の実施について、長老派と青年派の間になぜ考え方の差が発生したのか学級内で議論してみましょう!

[訳注]

*1:原文「Cudanco」。

スカルノとハッタがレンガスデンクロックに拉致されている間、小団長(*1)Singgihとの個別の話し合いで合意が得られた。つまり、独立宣言はジャカルタへ戻った後、直ちに実施されるだろうと。このことは、長老派のスバルジョと青年派の小団長Subeno(*2)がジャカルタで合意した内容によっても支持された。つまり、独立宣言はその翌日の1945年8月17日、12:00より前に行われるというものだった。

この合意に達した後、スカルノ-ハッタはレンガスデンクロックを離れジャカルタへ戻った。1945年8月16日23:00、ジャカルタへ戻るとすぐにスカルノとハッタは西村少将(*3)に独立宣言実施の件で面会したが、支持は得られなかった。この西村の対応によって、スカルノとハッタはインドネシア独立宣言を日本を含む他国の援助・付与なしに行おうと、決意をますます固めたのだった。その夜、独立準備委員会のメンバーと青年派リーダーたちも独立宣言準備と独立宣言文起草のため前田精(*4)少将の邸宅へ急ぎ集まった。

重要!

独立宣言文の起草は当初Hotel Des Indesで行われる予定だった。しかし、22:00以降の集会を禁止するという突然の禁止命令のため、ジャカルタのImam Bonjol通り1番(*6)にある前田精少将(ジャカルタ代表部の長*4)邸宅へ場所を移すこととなった。

スカルノ-ハッタと日本の管理者側(*5)そしてインドネシアの指導者たちとの間に様々なが議論が行われた後、独立宣言文の起草作業が直ちに行われた。独立宣言文の起草は、スカルノ、ハッタ、スバルジョによって行われ、1945年8月17日未明の03:00に完了した。

活動

前田精少将は、なぜインドネシア民族指導者たちに自宅の利用を~独立宣言文起草のため~許可したのか、友達と議論してみましょう!(*7)

[訳注]

*1:原文「Syudanco」。Syodancoの綴り間違いと思う。

*2:先ほどのセクションではCudancoとなっていた。どっちなのだろう。それとも同名のSyudancoがいたのだろうか?

*3:原文「Nashimura」。Nishimuraの綴り間違いと思う。西村少将は当時の軍政監部総務部長。
ハッタの回想録からこのときの西村少将の回答を引用;

「今朝だったらまだ実行できただろうが、午後一時以降、我々ジャワ島内の日本軍は上から『現状維持』の命令があり、事態の変更は許されないことになった。日本軍首脳部はインドネシア・ムルデカに関する約束事項の処理にあたり協力できず、真に悲哀を感じている。今日の昼過ぎからジャワ島内の日本軍はもはや行動の自由がなくなった」

少将は自分が連合国軍の出先機関であり、連合国軍のすべての指令に服従しなければならぬかのような態度だった。

・"モハマッド・ハッタ 回想録" 大谷正彦 訳、めこん。p.484。

*4:前田精(マエダ タダシ)少将。在ジャカルタの海軍武官。
前田少将邸宅は「独立宣言文起草博物館」として現存しています。

*5:原文「pihak penguasa Japang」。

*6:当時は「Miyakoodori」(みやこ大通り)という名称だった。

*7:このトピックについて、クラスではどんな意見が生徒たちから出されるのでしょうね?授業の様子を覗いてみたいものです。ハッタの回想録から、このときの前田少将とスカルノたちとのやり取りを引用しておきます。

スカルノが、今夜インドネシア独立準備委員会の会合のために前田邸を借りることになり、提督にその行為を感謝すると述べた。

提督は即座に答えた。

「それはインドネシア・ムルデカを愛する私の義務です」

・"モハマッド・ハッタ 回想録" 大谷正彦 訳、めこん。p.483。

独立宣言文の草稿が書き留められ、別室で待っていたインドネシア全指導者たちの前で彼らの意見を求めるため読み上げられた。独立宣言文に対して若干の変更を加えた後、出席者全員がその草稿について賛成した。しかし、まだ問題が残っていた。誰がその独立宣言文に署名するのが適切かということだった。Sukarniが、インドネシア民族の名においてスカルノとハッタが署名することを提案した。

地平線

独立宣言草稿は若干変更されて、Sayuti Melikによってタイプされた、それはつまり:
1. 単語"tempoh"は"tempo"へ変更された。
2. "wakil-wakil rakyat" Indonesia は "atas nama bangsa Indonesia"へ変更された。
3. "Djakarta, 17-8-45"は"Djakarta, hari 17 boelan 8 tahoen 45"へ変更された。(*1)

そして独立宣言草稿はSayuti Melikによってタイプされ、インドネシア民族の名においてスカルノおよびハッタにより署名された。こうしてタイプされ、日付が与えられ、署名されたことにより、草稿は正式な独立宣言文となった。また、この会議ではインドネシア独立宣言をジャカルタのPegangsaan Timur通り56番(現在のProklamasi通り)にあるスカルノ邸で読み上げることも決定された。1945年8月17日は朝からジャカルタのPegangsaan Timur通り56番にあるスカルノ邸でインドネシア独立宣言を迎えるための準備が行われていた。

全ての準備が完了すると、青年派の一人dr. Moewardiがスカルノにインドネシア独立式典が始まる時刻について質問した。その質問に対するスカルノの答えは、ハッタが到着の後、独立宣言文を読み上げるというものだった。09:55、ハッタがスカルノ邸に到着すると、10:00丁度にインドネシア独立宣言式典が開始された。スカルノとハッタが拡声器の前に現れた。そして独立宣言演説(*2)を行い、それに続いてインドネシア独立宣言文を読み上げた。

活動

なぜ独立宣言文草稿にはスカルノが線を引いた箇所がいくつか存在するのかクラス内で議論してみましょう。(*3)

[訳注]

*1:正確には、"Djakarta, hari 17 boelan 8 tahoen 45"ではなく"Djakarta, hari 17 boelan 8 tahoen 05"。最後の05とは日本の皇紀表現(2605年)。日本占領下では、西暦に代わり皇紀の使用・東京時間の採用といった日本化政策が採られていた。なお、現在のインドネシアでは、西暦表現に統一されている。→皇紀2605年の表記

*2:原文「Pidato Proklamasi」。次のページに独立宣言を含む全訳がありますので、是非ご覧ください。
"独立宣言演説"
この教科書には独立宣言の手書き草稿とタイプされた正式文書の写真が掲載されています。

*3:手書きの草稿には2回訂正した単語があります。このあたりのストーリーについては次のサイトが参考になりますので、ご覧ください。
http://www.jttk.zaq.ne.jp/bachw308/page028.html#317 (インドネシア専科)外部サイトへのリンク
手書き草稿のコピーが独立宣言文起草博物館に展示されています。→独立宣言文草稿

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