2008年8月8日追加↓
1941年12月7日、日本のパールハーバー爆撃によって、ヨーロッパの戦争は第二次世界大戦となった。パールハーバーを壊滅させことにより、日本の理想実現つまり大東亜共栄圏の建設は容易になった。日本はインドネシアを含む東南アジア及び東アジアの諸地域を占領することに成功した。(図2.4を参照のこと)
日本は容易に東アジア及び東南アジア諸地域を支配した。東南アジア地域占領にあたり、まるで日本は西欧諸国(イギリス、フランス、オランダ、そしてアメリカ合衆国)から意味ある抵抗を受けなかったごとくである。
しかし、アメリカ合衆国がヨーロッパから軍の一部を引き上げると[*1]、日本は困難な状態となりはじめた。1942年5月、日本のオーストラリア攻撃は中止された。なぜなら、珊瑚海海戦で日本軍が敗北[*2]したからである。ハワイに対する日本の攻撃[*3]も、1942年6月のミッドウェー海戦でアメリカ軍によって失敗させられた。1942年8月、アメリカ軍はガダルカナル(ソロモン諸島)に上陸し、巨大な損害を被った日本は1943年2月同地から撤退した。
<図2.4 太平洋における第二次世界大戦と日本のアジア-太平洋占領地域>
1943年以降、日本はその戦略をオフェンシブ(攻勢)からディフェンシブ(守勢)[*4]に変更しなければならなくなった。要するに、アメリカ合衆国が太平洋戦争の主導権を握り始めたのである。つまり、アメリカ合衆国が攻撃時期を決定すれば、そのように実施されたのである。他方、圧倒され始めた側の日本ができることは、占領した地域の防衛を試み、待つことだけだった。
※[ ]内は、訳者が追加。他方、( )内は原文に元からある注。
*1: アメリカ合衆国がヨーロッパから軍の一部を引き上げると。太平洋戦争での米軍攻勢開始がその欧州からの兵力転用に起因するものなのか検証必要。継続調査。
*2: 珊瑚海海戦。日・米両軍の被害状況に限定すると、日本側の方が被害は少なかったようです。しかし、この海戦の結果、日本軍は当初の目的「ポートモレスビー攻略」を放棄することとなり、それまで続いていた日本軍の前進は阻まれることとなりました。
参考ページ:珊瑚海海戦-Wikipedia
*3: ハワイに対する日本の攻撃。ミッドウェー海戦自体は、ミッドウェー島攻略を直接の目的として(同時に米海軍空母の撃滅も目的として)発生しましたが、日本は同年10月にハワイ攻略を予定しており、同海戦はそのための布石であったと言えます。
参考ページ:ミッドウェー海戦-Wikipedia
*4: オフェンシブ(攻勢)からディフェンシブ(守勢)。原文「dari ofensif (menyerang) menjadi defensif (bertahan)」。ofensif、defensifともに英語からの外来語。ここでは英語のカタカナ表記とさせていただきました。
2008年8月10日追加↓
戦いのたびに日本はゆっくりと、しかし確実にアメリカ合衆国の優位を認めざるを得なくなった。1944年2月、アメリカ軍はマーシャル諸島のクェゼリンから日本軍を追い払うことに成功した。連合国軍はその力を集中して真っ直ぐ日本へと向った。1944年6月、アメリカ合衆国の爆撃機B-29[*1]はいくつかの戦略的地域にある日本軍を無力化することに成功し始めた。さらに、フィリピン海で日本海軍は連合国軍により無力化された。[*2] 1944年7月、日本はサイパン(マリアナ諸島)の海軍基地を失わなければならなかった。
連合国軍への対処が日本軍の手に余るようになると、日本はその植民地から戦争への支持・支援を得ようと試みた。そこで、日本はインドネシアを含む植民地区域から政治及び経済の動員を行ったのだ。
<図2.5 日本と連合国の太平洋における戦闘(情報ソース:PK. Ojong 2001)>[*3]
政治的な動員は、軍隊組織及び半軍隊的組織を形成する手法で実施された。その軍隊組織と半軍隊的組織とは、例えばヘイホ、PETA、ジャワ・ホーコーカイ、3A運動、民衆総力結集(プートラ)[*4]であった。これら全ての組織は、連合国軍に対する戦いにおいて日本を支持するよう、日本が作り出したものだった。
この他に、大東亜戦争で日本を支持するようインドネシア民衆の共感をさらに得るため、日本は'将来におけるインドネシア独立の約束'を与えた。そのため、日本はBPUPKI(インドネシア独立準備調査会)[*5]を作った。日本語で、BPUPKIはドクリツ ジュンビ チョーサカイと呼ばれた。その後、インドネシア独立準備の任務を継続するため、BPUPKIはインドネシア独立準備委員会(PPKI)[*6]と交替した。日本語で、PPKIはドクリツ ジュンビ イインカイと呼ばれた。インドネシア民衆の支持をさらに確実なものとするため、南方地域日本軍の司令官は、1945年9月7日にインドネシア独立を与えると同意した。さらに、インドネシアの指導者数名(スカルノを含む)がその知らせを受け取るため日本政府の招待を受けた。[*7]
他方、経済上の動員は、共栄のために戦時需要を満たすべく、強制的に住民の財産・富を供出させることで行われた。日本[占領]政府へ財産を譲り渡すよう住民ごとに義務付けられたのだ。民衆は、日本[占領]政府へ価値のある所有物(金と宝石)、家畜、食料を譲り渡さねばならなかった。この事業の円滑化のため、日本はジャワ・ホーコーカイ(ジャワ民衆の献身)とノーギョー クミアイ[*8](農業の協同組合)を作った。日本の行った政治及び経済の動員は十分に成功したとはいえ、連合国軍の攻勢に対処するには十分ではなかった。
そして広島と長崎が合衆国に爆撃された後となっては、日本軍はついに連合国軍の優勢を認めたのだった。広島市は1945年8月6日に爆撃され、長崎市は1945年8月9日に爆撃された。インドネシアに対し独立を与える前に、日本は1945年8月14日[*9]連合国に無条件降伏した。ヨーロッパ大陸で起きていた戦争は既に1945年5月7日ドイツの降伏により終結していた。
※[ ]内は、訳者が追加。他方、( )内は原文に元からある注。
*1: 爆撃機B-29。B29爆撃機による日本への攻撃(空襲)は、中国の基地を拠点として1944年6月から開始された。
参考:B-29 (航空機)-Wikipedia
*2: フィリピン海で日本海軍は連合国軍により無力化された。具体的にどの海戦なのか不明。継続調査。
*3: 図2.5 日本と連合国の太平洋における戦闘。写真ではなく絵画のような感じです。日本軍機が連合国側の軍艦を攻撃している絵。具体的にどの海戦を描いたものか不明。
*4: ヘイホ、PETA、ジャワ・ホーコーカイ、3A運動、民衆総力結集(プートラ)。それぞれ、Heiho(兵補)、PETA(Pembela Tanah Air:祖国防衛義勇軍)、Jawa Hokokai(ジャワ奉公会)、Gerakan Tiga A(3A運動)、Pusat Tenaga Rakyat(民衆総力結集:Putera、プートラ)
*5: BPUPKI。Badan Penyelidik Usaha Persiapan Kemerdekaan Indonesiaの略。
*6: PPKI。Panitia Persiapan Kemerdekaan Indonesiaの略。
*7: 日本政府の招待を受けた。時期が明記されていないので、1943年11月にスカルノ、ハッタらが日本を訪問したことなのか、1945年8月上旬、ベトナムの寺内元帥を訪問したことなのか不明確。文章の内容からすると後者のようですが。。。
*8: ノーギョー クミアイ。原文「Nogyo Kumiai」。農業組合のことでしょうね。
*9: 1945年8月14日。ここで日本の降伏日を8月15日ではなく8月14日としている根拠が不明。アメリカ側の日付? しかし、英文Wikipediaの「World War 2」では、日本の降伏を8月15日と記述している。
参考:World War 2-Wikipedia(英文)
とはいえ、インドネシア語版Wikipediaだと日本の無条件降伏は8月14日になっている。
参考:Perang Dunia II(インドネシア語)
ひょっとして、この教科書、基本的な資料(日付等)はWikipediaに依存か?