2008年8月17日追加↓
確かに貴方たちは、日本が東アジアと東南アジアの諸地域を容易に支配したことをまだ記憶してる。なぜそうなったのか? なぜなら:(1) 日本は1941年12月7日パールハーバーのアメリカ海軍基地を既に粉砕していた;(2) 植民地の母国(イギリス、フランス、オランダ)はヨーロッパの戦争でドイツと対峙していた;(3) アジアの諸民族は日本のスローガン(日本はアジアの指導者、日本はアジアの光、日本はアジアの保護者[*1])を大いに信じた結果[日本への]抵抗を行わなかった。それどころか、日本兵の存在は好意を持って歓迎された。なぜなら、西欧諸国の植民地支配の手かせからアジア民族を解放する'兄'として日本をみなしたからである。
蘭領東インドの最高司令官がカリジャティ[*2]で無条件降伏した1942年3月8日以降、日本は正式にインドネシアを支配した。日本はたいした抵抗を受けることなくインドネシア占領に成功した。それどころか、インドネシア民族は日本軍の到来を好意と歓喜を持って歓迎した。なぜなら、オランダ民族の植民地支配という手かせからインドネシア民族を解放するだろうと思われたからである。
<図2.6:1942年、日本の到来を歓迎する住民たち(ソース:PK. Ojong, 2001)>
ところが実際には、3A運動[[*1]を参照]のスローガンと日本が'兄'と自称することは策略であり、日本軍の到来をインドネシアに受け入れさせるためのものだった。はじめのうちは日本軍の到来をインドネシア民族は暖かく迎えた。しかしながら実際には、他の帝国主義国家と日本はたいして違わなかった。日本はドイツやイタリアと同様に新しい帝国主義国家であった。新参の帝国主義国家として、日本はその工業需要を満たすための原材料やその工業生産品のための市場を必要としていた。それゆえ、植民地地域は日本の産業発展にとって極めて重要であった。もし安価で十分な原材料(原料)と大規模な産業によって造りだされた市場によって保持されないのならば、産業の発展に意味があるだろうか?[*3]
そこで、インドネシアへの日本軍到来の目的は、インドネシア占領のためその支配の確立であったことは明らかである。すなわち、3A運動のスローガン及び'兄'の自称は全くの偽りの標語だったのだ。このことはインドネシアにおいて日本軍占領期間に発生したいくつかの事実から証明することができる。さらに、日本軍の[インドネシア民族に対する]扱いはずっと残酷であり、その結果インドネシア民族は苦しみを経験したのだ。経済諸資源は日本の産業と軍需のため次のような様々な方法を通じて日本軍によって厳格に管理された:
※[ ]内は、訳者が追加。他方、( )内は原文に元からある注。
*1: 日本はアジアの指導者、日本はアジアの光、日本はアジアの保護者。原文「Jepang pemimpin Asia, Jepang cahaya Asia, dan Jepang pelindung Asia」。いわゆる「3A運動」と呼ばれるもの。
*2: カリジャティ。原文「Kalijati, Bandung」。地理的にバンドゥンは特に関係ないので訳から省きました。もしくは当時、バンドゥン県(州?)内にカリジャティがあったのかもしれません。継続調査とします。
*3: もし安価で十分な~~だろうか? この文章は残念ながら意味が上手くつかめません。原文は次の通り。「Apalah arti kemajuan industri apabila tidak didukung dengan bahan mentah (baku) yang cukup dengan harga yang murah dan pasar barang hasil industri yang luas.」←2008年08月19日訳を修正しました。
*4: ロームシャ。原文「romusha」。原文「romusha」。労務者です。romusa、romusyaとも綴られる。既にインドネシア語の単語となってます。労務者については、高等学校3年生向け教科書「日本軍占領時代」の注もご覧ください。
インドネシア占領後、日本は様々な方針を取った。日本軍政府の方針は、様々な方面を含み、次のようなものだった。
<表2.1 食物/食料生産 1941-1944>
戦争遂行のための経済資源動員。農業生産物や住民の資産を支配するため、日本は常にそれは戦争のためと言い訳をした。日本政府のために住民はそれぞれ資産を譲渡しなければならなかった。民衆は、価値のある所有物(金や宝石)、動物、食料を日本政府へ渡さねばならなかった。これら事業を円滑に行うため、日本はジャワ奉公会[*3](ジャワ民衆の献身)や農業組合[*4](農業共同組合)を組織した。
経済面での日本政府による諸方針は、インドネシア民衆の生活をますます苦しく苦痛に満ちたものにしたのだ。日本占領期間、インドネシア民衆の苦しみと困窮は、オランダ植民地時代のそれらに比べて、ずっと悪いものだった。オランダがインドネシアを支配したのは3世紀半だったが、日本の占領はたった3年半だったというのに。
日本占領行政の基盤となったのはきわめて独裁的な軍政府であった。支配を行うため、行政府はいくつかの部分に分割された。ジャワとマドゥーラはジャカルタ(前バタヴィア)に本部を置く第16軍に支配された。スマトラはブキティンギ(西スマトラ)に本部を置く第25軍に支配された。他方、東部インドネシアはマカッサル(南スラヴェシ)に本部を置く第二軍[*5](海軍)に支配された。陸軍行政部はグンセイブ[*6]と呼ばれ、海軍行政部はミンセイブ[*7]と呼ばれた。
それぞれの地域は、より小さい区域へ分割された。当初、ジャワは3つの州(西ジャワ、中ジャワ、東ジャワ)と2つの特別行政地域、つまりジョグジャカルタとスラカルタへ分割された。しかし、この分割は効果的ではないと判断され、取り消された。結局、ジャワは17の地域(シュウ[*8])に分割され、それぞれ長官(シュウチョオカン[*9])の指令に従うこととなった。州は市(シ[*10])、県(ケン[*11])、市もしくは区(グン[*12])、郡(ソン[*13])、村(ク[*14])からなっていた。
スマトラは10の地域といくつかの区域(ブンシュウ[*15])、地区、郡に分割された。他方、海軍が支配する東部インドネシアは、3つの地域に分割された。それは、カリマンタン、スラヴェシ、そしてマルクとパプアであった。
それぞれの地域は、いくつかの区域、県、副県(ブンケン[*16])、区、郡へと分割された。
上述の領土分割は、日本軍政の利害のために全地域を管理し抑えることが出来るよう意図されたものだった。しかしながら、効果的に行政を行うには多くの人員(職員)が必要とされた。そして、行政面での人的需要を満たすには、インドネシアにいる日本人の数は十分ではなかった。効果的に政府を把握し動かすことは困難な課題であった。なぜなら、政府内の重要な職務を遂行するために信頼できる職員・人員の数は限られていたからである。
職員不足に対応するため、日本政府が取りうる選択は次のようなものであった;
しかし実際には、上の選択肢はいずれも同様に日本軍の利益とはならなかった。ついに、様々な配慮から(実際にはやむを得ず)日本は政府を運用するための助力してインドネシア人を選択したのだ。日本はやむを得ずいくつかの重要な役職をインドネシア人に渡さねばならなかった。たとえば、宗教省はHusein Djajadiningratが指導することになり、ジャカルタ市及びボジョヌゴロ市はそれぞれSutardjo KartohadikusumoとR.M.T.A. Surioが監督することとなった。また行政機関を動かすために信用を得た国民的人物たちがいた。それは、スカルノ、Suwandi、Abdul Rasyid、Supomo、Mochtar bin Prabu Mangkunegoro、Muh, Yamin、Prawoto Sumodilogoらであった。さらに、オランダ時代の植民地議会と同種の中央審議会(チュウオ・サンギ・イン[*17])に参加するチャンスもあった。
日本政府内の役職を占めて政府を動かす機会を得たことは、特に独立直後のインドネシア民族にとって価値のある経験であった。独立した民族として、インドネシア民族は政府を上手く運営することが出来なければならなかった。それゆえ、日本政府時代の経験は極めて有益な長所となった。なぜなら、国家のような巨大な組織を運営するための能力をインドネシア民族が得たからである。
日本は、その占領の当初から、連合国に対する戦争を勝利するため、インドネシア民族がすすんで日本政府を援助するよう、彼らの気持ちを引き付けるべく試みた。インドネシア民族は、そのほとんどが常に様々な軍事的・準軍事的組織へ関与させられた。
日本政府によって設立された軍事的な組織とは次のようなものであった:
<写真 2.8 若年層の行軍。子供たちも日本によって軍事訓練を受けた (ソース:Tugiyono, 1985)>
PETAの構成員は、幾つかの階級(実際には階級ではなく職務)に分けられていた。それは次の5つからなっていた;(1) 大団長(大隊の指揮官)、(2) 中団長(中隊の指揮官)、(3) 小団長(小隊の指揮官)、(4) 部団長(隊の指揮官)、(5) 義勇兵(自発的に兵士となったもの)[*26] 大団長は(大隊の指揮官)は、政府職員、宗教指導者、司法行政官、政治家、法律家 等の社会的に名の知れた名士たちの中から選ばれた。中団長(中隊の指揮官)は、まだ高位の職には就いていない教師や事務官などの中から選ばれた。小団長(小隊の指揮官)は中学校の学生かそれ以上の者から通常は選ばれた。部団長(隊の指揮官)と義勇兵(自発的に兵士となったもの)は小学校生徒[*27]から選ばれた。
<写真 2.9 隊列を組んで訓練する女性たち(ソース:Tugiyono 1985)>
PETAの構成員になる青年たちには次の3つの特徴があった;
(1) 高い意識によってPETA構成員となった者、
(2) 他の者の影響を受けてPETA構成員となった者、
(3) 特に意識することなくPETA構成員となった者。
日本が太平洋戦争に勝利すると考えた者たちの間では、インドネシア民族の生活に変化~つまり独立した民族として~をもたらそうとする者もいた。さらに、日本はインドネシアを去り、そしてインドネシアは独立国家となるだろうと言うジョヨボヨの予言[*28]を信じる者たちもいた。そのためにも、インドネシアは領土を保全する軍隊を必要としていた。
PETAの構成員は、ボゴールでジャワ防衛義勇軍幹部練成隊[*29](PETAの義勇兵指揮官訓練組織)の軍事訓練を受けた。その後その組織の名前は、ジャワ防衛義勇軍幹部教育隊[*30](ジャワPETA義勇兵指揮官訓練組織)と変わった。教育後の彼らはジャワ、マドゥーラそしてバリに設置された大団へ配属された。
しかしながら状況の進捗とともに、PETA構成員の何人かは日本軍政府に対して失望し始めていた。その失望は反乱の暴発となって頂点に達した。PETAの最大の反乱は1945年2月14日ブリタルにてSupriyadi[*31]の指揮で発生した。その反乱は労務者[*32]にされた青年たちに対する日本の残虐な扱いが引き金となったのだ。
<写真2.10 青年団の訓練(ソース:Tugiyono, 1985)>
a) インドネシア民族を日本の利益のために奉仕するよう動員する。
b) 日本の勝利を宣伝する。
c) 反西欧~特にオランダ、イギリスそしてアメリカ合衆国~の思想を植えつける
その結果、いたるところで貧困が猛威をふるい、民衆はズタ袋の衣類をまとうのみであり、飢えのために多くの民衆が死んだ。連合国の攻撃に備えインドネシア防衛を強化するために、民衆は軍事訓練を受けた。民衆は兵舎建築のため強制労働を押し付けられた。民衆は労務者となるよう強制されたのだ。
<写真 2.11 日本へ米を譲渡する農民たち(ソース:Tugiyono 1985)>
オランダ時代と同様に、社会階級の区分は社会面での重要な方針のひとつだった。社会階層は‘兄(日本)’と‘弟(インドネシア)’に分割された。また、アジア人住民の中で、特に中国人は疑いの目を向けられる階層だった。なぜなら、彼らの祖国において日本民族はその理想を実現することが困難であると経験していたからである。この理想とは‘アジア民族のためのアジア’というプロパガンダに他ならなかったが、実際のところはアジア民族のためのインドネシアなどではなく、日本民族のためのインドネシアであったのだ。この目的達成のため、日本は社会面において次のような幾つかの方針を打ち出した:
※[ ]内は、訳者が追加。他方、( )内は原文に元からある注。
*1:ケンペタイ。原文「Kempetai」。日本占領下の憲兵隊については、別の中学校教科書の訳注も参照ください。
*2:キニーネ。マラリヤ治療薬の原料。
*3:ジャワ奉公会。原文「Jawa Hokokai」。高等学校教科書の記述をご覧ください。
*4:農業組合。原文「Nogyo Kumiai」
*5:第二軍。日本側の正式名称は「第二南遣艦隊」
*6:グンセイブ。原文「Gunseibu」。軍政部のこと。
*7:ミンセイブ。原文「Minseibu」。民生部のこと。
*8:シュウ。原文「Syu」。州のこと。
*9:シュウチョオカン。原文「Syucokan」。州長官と思われる。
*10:シ。原文「Syi」。市と思われる。
*11:ケン。原文「Ken」。県と思われる。
*12:グン。原文「Gun」。郡と思われる。
*13:ソン。原文「Son」。村と思われる。
*14:ク。原文「Ku」。区と思われる。
*15:ブンシュウ。原文「Bunsyu」。分州と思われる。
*16:ブンケン。原文「Bunken」。分県と思われる。
*17:チュウオ・サンギ・イン。原文「Chuo Sangi In」。中央参議院です。
*18:兵補。原文「Heiho」
*19:柳川中尉。タンゲランの柳川青年道場を指導。詳細は「インドネシア専科」>「タンゲラン青年道場」をご覧ください。
*20:祖国防衛義勇軍。原文「Pembela Tanah Air」。略して「PETA」。
*21:原田熊吉中将。1888-1947。戦後、戦犯としてシンガポールで処刑された。インドネシアの歴史教科書では「インドネシアをオランダ植民地支配から開放すると表明した」日本軍人として度々紹介されているようです。別教科書「日本軍占領時代」の「練習問題」を参照ください。
*22:Gatot Mangunpraja。Gatot Mangkuprojoとも綴られる。1898-1968。スカルノやハッタと同様、オランダ植民地時代からの独立運動家。
*23:これだと、「PETA設立をインドネシア側が言い出すよう、日本軍側がインドネシア側に要請した」ということになります。さらに調査要です。
*24:治政令。原文「Osamu Seirei」。ジャワを占領統治した第16軍は「治(オサム)」と呼ばれていた。
*25:青年団。原文「Seinendan」。青年団は1943年4月29日に発足した準軍隊的な組織。
*26:それぞれ、原文は「Daidanco」「Cudanco」「Shudanco」「Budanco」「Giyuhei」。
*27:小学校生徒。原文「pelajar sekolah dasar」。直訳すると"小学校生徒"だが、"小学校卒の者"というのが妥当ではないかと思う。
*28:ジョヨボヨの予言。Jayabayaとも綴られる。ジョヨボヨ(Joyoboyo)は12世紀頃クディリ朝の王。その予言で有名。詳細は「インドネシア専科」>「ジョヨボヨ王の予言」をご覧ください。なお、インドネシア歴史・社会科教科書でジョヨボヨ王の予言に言及しているのを読むのはこれが初めてです。
*29:ジャワ防衛義勇軍幹部練成隊。原文「Jawa Boei Giyugun Kanbu Renseitai」。
*30:ジャワ防衛義勇軍幹部教育隊。原文「Jawa Boei Giyugun Kanbu Kyoikutai」。
*31:Supriyadi。反乱鎮圧後、見つからず。生死不明のまま。詳細は「インドネシア専科」>「ブリタルの反乱」をご覧ください。
*32:労務者。原文「romusha」。労務者です。romusa、romusyaとも綴られる。既にインドネシア語の単語となってます。労務者については、高等学校3年生向け教科書「日本軍占領時代」の注もご覧ください。
*33:ジャワ奉公会。原文「Jawa Hokokai」。
*34:隣組。日本占領下「Tonarigumi」として導入された。日本占領終了後もRT(Rukun Tenangga)という名称で残っています。
*35:トナリグミ。原文「Tonarigumi」。
*36:キンローホーシ。原文「Kinrohoishi」。Kinrohoshiの綴り間違いだと思います。勤労奉仕です。
*37:コクミンガッコウ。原文「Gokumin Gakko」。Kokumin Gakkoの綴り間違いだと思います。6年制の小学校です。
*38:ショトウ・チュウガッコウ。原文「Shoto Chu Gakko」。中学校(3年制)に相当。
*39:チュウガッコウ。原文「Chu Gakko」。高等学校(3年制)に相当。
*40:コウギョウ・ガッコウ。原文「Kogyo Gakko」。どんな学校なのか不明。
*41:コウギョウ・センモン・ガッコウ。原文「Kogyo Sermon Gakko」。Kogyo Senmon Gakkoの綴り間違いだと思います。*42:ショトウ・シハン・ガッコウ。原文「Syoto Sihan Gakko」。初等師範学校だと思います。
*43:グトウ・シハン・ガッコウ。原文「Guto Sihan Gakko」。Gutoが何なんなのか不明。
*44:コウトウ・シハン・ガッコウ。原文「Koto Sihan Gakko」。高等師範学校だと思います。
*45:イカ・ダイ・ガッコウ。原文「Ika Dai Gakko」。医科大校です。
*46:コウギョウ・ダイ・ガッコウ。原文「Kagyo Dai Gakko」。Kogyo Dai Gakkoの綴り間違いだと思います。工業大学です。
*47:ケンコク・ガクイン。原文「Kenkoku Gakuin」。建国学院。
*48:Armin Pane。どういった作家なのか不明。継続調査とします。
*49:Abu Hanifah。どういった作家なのか不明。継続調査とします。
*50:45年世代。原文「Angkatan '45」。インドネシア文学史で世代(時代)によるグループ分けを行う際に使われる用語のようです。インドネシアで最も著名な作家(だと思う)プラムディア・アナタトゥールもこの45年世代とのこと。
※日本占領下のインドネシアでは、「日本語」の「言葉」がそのまま持ち込まれているケース多々あり。
以下、翻訳作業継続中。。。。