戦死した叔父
今から丁度60年前の1944年(昭和19年)、私の叔父(私の母の兄)は『台湾基隆(※)北方の海面』で戦死しました。『台湾基隆北方の海面』という場所は終戦後、祖母が受け取った戦死公報に記載されていたそうです。その場所『台湾基隆北方の海面』は私の家の墓(墓標)にも刻まれていますので(私の家は母が継いでおり、父は婿養子)、墓参りの際には必ず目にしてきました。
※基隆:Keelung(英語表記)、ジーロン(中国語読み)
さて、私は戦後生まれですから、叔父と直接の面識はありません。
私の叔父に対するイメージは、実家の壁に掛けられているその遺影によって形成されたといってよいでしょう。私が物心付くころから、壁の高いところに掛けられ、私を見下ろしているセイラー(水兵)服姿の叔父の姿は、当時両親が入信していた『とある神道系の宗教団体(※)』の活動(私は子供でしたが両親と一緒によく出かけていました)や祖母が語る皇室に対する尊敬の念と共に、幼稚園から小学校低学年の頃の私の生活の雰囲気を規定していたように思います。
しかし、高校卒業後 私は実家を離れ、両親もその宗教団体とは疎遠になり、祖母も他界。『戦死した叔父』の記憶は無くなりはしないものの、最近まで私の意識の最下層にしまい込まれていました。
※生長の家
http://www.sni.or.jp/
分類上「神道系」とされることが多いようですが、ちょっと無理な分類かもしれません。
当時、子供の私にとっては、訳の分からない講話のあと、青年部のお兄さんたちに遊んでもらえるのが楽しみでした。
台湾行きを思い立つ
今回の台湾渡航は『基隆北方海面で戦死した叔父』とはまったく無関係に思い立ったものでした。「行ったことがない外国に渡航してみるか」「でも遠くは大変」「台湾だと鉄道で一周するのは難しくなさそうだ」といった調子で、渡航先候補となりました。我ながら安直だと思います。。。。
しかし、今年の2月末に放送された次のTV番組を見て、気持ちが変わりました。
・LOVE ASIA~花びらの舞う海へ~
http://www.tnc.co.jp/loveasia/ (公式サイト)
番組のあらすじは省きますが、『海で亡くなった家族を弔う旅』がドラマの筋となっています。
この番組を見て、戦死した水兵だった叔父の存在がいきなり鮮烈に思い出されたのです。(なんとなく、ドラマを制作したプロダクションにしてやられたような悔しさがなくはないのですが。。。)
『これは絶対に台湾へ行かなければならない。』 私は母に相談し、渡航の準備作業に入りました。(残念ながら、母は高齢なので長距離の旅行は無理。私が母の分も祈ってくるということで。なお、父は6年前に他界しています。)
さて、何しろ台湾へは一度も行ったことがありません。
「基隆っていったいどこにあるの?」「台北から基隆はどうやって行けば?」「基隆から沖へ出ることは可能?」
地図を眺め、鉄道関係の本を読み、ウェブを漁り、掲示板に質問を書きこむ。。。掲示板では少なからぬ方々からアドバイスをいただきました。たいへん感謝しています。
何とかなりそうだ、という見当もついたところで、フライトなどの手配を開始。しかし、一つだけ今回の渡航に間に合わなかったのは叔父の「兵役簿」の閲覧でした。厚生労働省に保管されているこの名簿を閲覧できれば、叔父が乗っていた船の名前など職分関係が分かるのですが、手配が間に合わず断念しています。これは、後日きちんと調べるつもりです。
子供の頃を思い起こさせる不思議な場所
『台湾には古き日本の面影が残っている云々』などという月並みの表現は、台湾に詳しい方々に笑われてしまいそう。
しかし、20日深夜ホテルに着いたとき我が目を疑いました。ホテルカウンターの壁に「皇室カレンダー」が掛けてあるんですよ>このホテルは!
そして、翌21日朝。ホテル前の細い通りをMRT駅へ向かうとすぐ近くに『生長之家』という看板が。まったく自分が見ているものを信じられませんでした。午後、戻ってきたときにその建物を覗くと誰かの「講話」を集まっている人々が聞いていました。「まさかこれは"生長の家"?」 ホテルに戻ってウェブを漁ると、確かにそうでした。台北市内の数カ所で同じような活動を行っているそうです。
今回の渡航では、叔父の遺影(水兵服姿)のコピーを持参しています。そして「皇室」「生長の家」が登場。昭和30年代の幼かった頃の思い出を強制的に引きずり出そうとしているかのよう。
21日の夜は、気分が沈みこんでしまいました。『このホテルはウェブで偶然選んだはずなのに、なんだ? この有様は』